鍼灸師が国家資格になったのは実はまだ80年ほど前のこと
今のかたちに落ち着くまで、鍼灸には2000年という長い時間がかかっています。
毎日どこかの鍼灸院で当たり前のように施術が行われている今の環境は、実はごく最近になって整ったものです。ここでは、鍼灸が生まれた古代中国から順に、今のかたちにたどりつくまでの道のりをご紹介します。
中国での誕生から、日本への伝来、鎖国のなかで生まれた日本独自の技法、そして明治と戦後の二度の危機まで。時代を追って読み進められる構成にしています。

2000年の流れを、ひと目で
細かな年号よりも、どこで生まれ、どうやって日本に根づき、何を乗り越えて今があるのか——その流れをつかんでいただくのが、このページの目的です。まず全体を並べておきます。
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紀元前4〜3世紀 中国
鍼灸の土台が形づくられる
春秋戦国時代には、すでに中国伝統医学の基盤ができていたと考えられています。
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前漢末期 中国
『黄帝内経』がまとまる
気・陰陽五行を説く「素問」と、経絡や鍼灸の実践を記した「霊枢」。いまも鍼灸理論の源流です。
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414年 日本へ
日本で鍼が使われた最古の記録
新羅から来日した金武が、允恭天皇の足の痛みを鍼で和らげたと伝えられています。
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984年 平安
『医心方』が編さんされる
丹波康頼による、現存する日本最古の医薬学書。日本の気候や体質に合わせた工夫が残されています。
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16世紀 安土桃山
経験にもとづく漢方が広まる
明に渡った田代三喜が持ち帰り、曲直瀬道三の一門が「後世方派」として広めました。
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17世紀 江戸
杉山和一が管鍼法を生み出す
鎖国で新しい情報が途絶えたことが、かえって日本独自の刺し方を育てました。細く浅い日本の鍼は、ここから始まります。
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1883年 明治
医学としての位置づけを失う
医師免許規則により、医師と認められるのは西洋医学を修めた者に限られました。ただし業として営むことは続きます。
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1947年 戦後
存続の危機を越え、法律ができる
GHQによる廃止の動きに関係者が声を上げ、いまの国家資格につながる法律が生まれました。
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現在
3年以上の養成と国家試験を経て
当院もこの流れの延長線上にあります。ここから、ひとつずつたどっていきます。

すべては、2000年前の中国から始まった
鍼灸の歩みは、古代中国から始まります。
鍼灸を含む中国伝統医学の基盤は、春秋戦国時代(紀元前4〜3世紀ごろ)にはすでに形づくられていたと考えられています。現代に伝わる最古の医学書は3つあり、なかでも前漢末期に編さんされた『黄帝内経(こうていだいけい)』は、気や陰陽五行の考え方を説く「素問」と、経絡や鍼灸の実践を記した「霊枢」の二部からなる、鍼灸理論の源流です。このほか、365種の生薬を上薬・中薬・下薬に分類した『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』、生薬の処方を体系立てた『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』も、東洋医学全体を支える古典として知られています。黄帝内経についてはこちらの記事で詳しくご紹介していますので、あわせてご覧ください。
この中国医学が日本に届いた最も古い記録は、5世紀にまでさかのぼります。414年、朝鮮半島の新羅から来日した金武(こんむ)という人物が、第19代允恭天皇の足の痛みを鍼で和らげたという言い伝えが残っており、これが日本における鍼灸の出発点とされています。
こうして大陸から伝わった医学が、このあと日本のなかで独自に育っていきます。

鎖国という制約のなかで磨かれた、日本独自の技術
江戸幕府の鎖国政策は中国からの新しい医学情報の流入を止めましたが、皮肉にもそれが日本独自の技術を育てる土壌になりました。
鎖国以前、日本にはすでに大陸から伝わった医学の蓄積がありました。984年には鍼博士・丹波康頼が『医心方(いしんほう)』を編さんし、現存する日本最古の医薬学書として、日本の気候や体質に合わせた工夫を書き残しています。安土桃山時代には、明に渡って学んだ田代三喜が持ち帰り、曲直瀬道三の一門が広めた「後世方派」が、経験に基づく実用的な漢方医学として浸透していました。
鎖国によって新しい情報が入りにくくなると、この土台の上に、日本人自身の手で技術を磨く動きが強まります。
視覚に障害を持つ鍼灸師・杉山和一が考案したのが、鍼を細い管に通してから軽く弾くように刺し入れる「管鍼法」です。刺入の瞬間の痛みを抑えられるこの技法は、現在も鍼灸師の基本技術のひとつとして受け継がれています。杉山は自ら視覚障害者のための鍼灸教育の仕組みも整えました。ここで築かれた「視覚障害のある方々による鍼灸の生業」という土台は、このあと鍼灸が医学としての立場を失ったときに、業としての存続を支えることになります。

明治——一度は「正当な医学ではない」とされる
実は鍼灸には、法律上「医学」としての立場を失っていた時期があります。
江戸末期、長崎の出島を窓口にオランダから伝わった蘭学は、人体の構造を目で見て確かめる解剖学や外科学の知識を通じて、当時の日本人に大きな衝撃を与えました。明治に入り、ドイツ医学を手本とした西洋医学が国の医療制度の中核に据えられると、1883年制定の医師免許規則により、医師と認められるのは西洋医学を修めた者に限定されました。これにより、鍼灸は独立した医学としての公的な位置づけを失うことになります。
ただし、鍼灸そのものが禁じられたわけではありません。視覚に障害のある方々が鍼灸を生業とする仕組みがすでに江戸時代から根づいていたこともあり、業として営むことは引き続き認められたのです。医学としての地位と、職業としての存続は、ここで別々の道をたどることになりました。そしてこのあと、その存続すら危ぶまれる時期が訪れます。

戦後——存続の危機を越えて、国家資格へ
当院の鍼灸師も含め、現在「はり師」「きゅう師」を名乗って施術を行うには、3年以上の養成期間を経て国家試験に合格する必要があります。この制度の土台ができたのは、実は戦後まもない時期のことです。
戦後まもなく日本を占領統治したGHQ(連合国軍総司令部)は、鍼灸を非科学的な医療とみなし、廃止も視野に入れて検討を進めていたといわれています。しかしこれに対して鍼灸師をはじめとする関係者が声を上げ、粘り強い働きかけの末に廃止は回避されました。こうして1947年12月に生まれたのが「あん摩マッサージ指圧師、はり師、きゅう師等に関する法律」の前身にあたる法律であり、当初は「あん摩、はり、きゅう、柔道整復等営業法」として翌年に施行されています。以後、名称や内容の改正を重ねながら、今の受験資格や養成の仕組みが整えられてきました。
つまり、私たちが今受けているような形の鍼灸は、わずか数十年前まで、存続そのものが危ぶまれていたということになります。
東洋医学の考え方にご興味を持たれた方は、ぜひ「東洋医学のはなし」の他の記事もあわせてご覧ください。

2000年の歴史を受け継ぐ施術を、体感してみませんか
中国で生まれ、日本で育まれ、幾度もの危機を越えて今に伝わる鍼灸。東洋中村はり灸院は、国家資格を持つ鍼灸師が東洋医学一筋で施術を行う、札幌の鍼灸専門院です。
初回はカウンセリングに時間をかけ、お体の状態をしっかり把握したうえで施術を行います。LINEからいつでもご相談・ご予約いただけます。

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院長プロフィール

中村 麻人(なかむら あさと)
札幌「東洋中村はり灸院」院長・鍼灸師。
脈・腹などから全身の状態を見立てる伝統的な手法を軸に、その方に合ったはり・お灸を組み立てています。コリや痛みを引き算のように取り除くのではなく、足りない力を補って立て直すという視点を大切に、肩こり・腰痛から原因がはっきりしない慢性的な不調まで、体質そのものから整えることを目指してはり治療を行っています。
